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ゲームサイド編集部の何か

身体的理由でゲームできなくなる問題

さーて今回もPS3ディアブロ3プレイ日記っちゃうぜー……と言いたいところだが、実は最近、ある理由であまりディアブロれてない。

ディアブロ3をやっていると、なぜか目がすさまじく疲労するようになって、開始30~40分くらいでプレイ中断してしまう。当初はその時の体調にもよるのかなーと思ったのだが、何度やっても眼精疲労がはげしく、目の疲れを感じる以上はゲームを続けられなくなってて、しばらく手つかずでいる状況。

 

3DSで3D対応ソフトをオンにしてゲームしてると、目が立体視慣れしなくて疲れたりするけど、あれとはまた違う疲れみたいで、目の奥がズーンとくる重さでなく、まるで眼球が灼けるように痛くなってくるようで……まさかドライアイ? もしかしてまばたきを忘れるほど夢中になってるから? でも他のゲームを同じ時間分集中してやったり人のプレイを見たりしてる時は全然平気で、とにかくディアブロ3だけは、やってると目がダメっぽくなってしまった感じ。

 

とまあ、体がもたなくなってゲームができなくなるの、ゲームに愛想が尽きたり飽きてやらなくなるより、正直つらい。そう考えると、ゲームやるには目と手はくれぐれも大事にしなきゃなぁと改めて気づかされる。以前、利き手でない側の親指にトゲが刺さって痛くて、しばらくの間コントローラを握れなかったことがあって、あの時も、ゲーオタは常に手指の危機=ゲームができなくなる恐怖にさらされているのだと実感したのだった。

 

ちょっと話題が外れるけど、シューティングやアクションなど、加齢にともない反射神経が問われる系ゲームがだんだんと難しいなーと感じてくるのも、実はいよいよゲーマー高齢化問題にも頭つっこんできてるのではないかなって気がしてる。

「ノーマルが難しきゃイージーでもやってろ年寄りが!」で済むのならいいけど、全年齢向けインターフェイスを備えてる超理想的ゲームなんてそうそう数多くあるものでないし、幼児~若年寄りの全年齢デザインだと老境にはきついものがあるし、おまけにHD画面特有の細かい文字表現だって老眼で見えなくなってくるだろうし……なんつーか、お互い歳は取りたくねぇもんだなぁっつーくらーい老害話になりそうなので、このへんで締めとこ。

 

たとえばあと数十年後、還暦をすぎても週刊少年漫画を毎週欠かさず読み続けたり、自分の孫ぐらいのキャラが登場する学園もの作品を愛でたりする、精神的には老化しない未来が、ひょっとしたら現実的となる中、自らの身体的老化にはまだ本格的に向き合えてないのかも?

伊集院光氏が、深夜ラジオで老眼が始まったショックを語っていたり、「ゲームセンターCX」で有野課長が、プレイ中や取説を読む際に老眼鏡をかけたりなどを見聞きすると、まるでいつまでも変わらないと思っていた親や親戚たちの老化を身近に感じてしまうような哀しさがあるが、生きていればいつか必ずやってくる老いは、自分の身においても同様に平等で、まったく一緒なのだ。

だから今のうちに、体の自由が利く限りはやれるゲームはやる、もし体が理由でやれなくなったら、以前のような達成感は得られないがそれでもやる、もしくはやれそうなゲームと出会う……みたいな覚悟というか割り切りが、近々そのうち必要になってくるのではないか、と今回のディアブロ3目疲れの件で、ふと思ってみた。

 

何はともあれ、ゲーム疲れ目にはパワーオブアズキこと「あずきのチカラ 目もと用」が大変効果的なので、ぜひともオススメしておきたい。肩用もすごい効果あるぞ!

春の夜でないのにゲームやってると春眠暁な問題

ただいま年度末恒例の、ガッチガチに凝り固まった事務的文面を書きまくっててムキーとなってるので、テキトーにPS3ディアブロ3話をします。

 

ナイトメアモードが始まったんで、ソロ2周目や野良マルチやらこなしてるのだが、しばらく敵とのバトルが続くと、なんだかとても眠くなってきてしまう。つい先日も眠気がやばくて落ちようかなーと思った途端に野良プレイヤーが参加してきて、ゴメンネーと言いつつ電源を切って即寝入ってしまった。

 

ディアブロ3の基本操作は、フロア移動→敵出現→殲滅→フロア移動……のひたすら繰り返しで、レア敵が急に沸くとか緊張感が発生しない限りはわりと一定のリズムで進行するので、そのリズム感がまるでゆりかごのような単調さで眠気を誘ってるのだと思うけど、だからといってゲームが退屈でつまらないってワケでは決してなくて。たぶんプレイ時の体調や精神状態にもよるのだろうが、とにかく眠くなる。困った。

 

これは映画の話になるが、フィルム長回し技術でおなじみのアンドレイ・タルコフスキー監督やテオ・アンゲロプロス監督作品などが好きなのだが、彼らの映画を観るたびに、ほぼ寝てしまう。「ノスタルジア」で、男が広場の温泉をロウソクの火を消さずに渡りきるシーンとか、一体何度寝てしまって結局ロウソクの火は消さずに渡れたのかが曖昧になったことやら、という感じ。

映画のフィルム長回し技術は、特に一定リズムを刻まないタイプの眠気を誘う緊張感が終始続いてるから寝ちゃうのかなーって気がするが、まあゲームでも長~い紙芝居シーンをずっと見せられると若干眠くなったりもするし、「これ退屈だから寝ててもいい?」と言って寝てしまう受け手などはきっとどこにもいない(と、信じたい)わけで。

 

つまりおそらく、ゲームには我々プレイヤーや開発者も予想だにしていない、一定の条件とトリガーが引かれると作動する“眠気ポイント”プログラムが組み込まれているのでは……!? とかどうでもいいことを考えてたら、ぼくなんだかとても眠くなってきたよ……おやすみなさい。

ディアブロ3(PS3版)おもすれー

以上、件名だけで終わってしまう近況でした。

年始に風邪引いて新年仕事始めから数日ぶっ倒れて、やっと回復したらディアブロ3が出ちゃったもんだから、GTA5のクリア目標がさらに遠のいた。悩ましい!

何気に本作が人生初ディアブロ体験となるので、会話スキップや省略はせずにまずはストーリーを一通り堪能するために、オフラインのソロで丁寧に進行して、こないだデフォルトモードをクリアしてナイトメアモードに突入した。やっとストーリーをすっ飛ばしハクスラ無双ができるぜーと息巻いてたら、ナイトメアで序盤からいる従者を連れてその従者と出会うクエストをこなすと、従者から味わい深いコメントが聞けるって話なので、やっぱしソロでやるしかないじゃん! ……というのが現在地。ここは地獄の何丁目だ!?

ソフトのせいでもハードの限界でもなく個人的嗜好の変化でもない理由と対処法を考えてみる


CM MD SEGA メガドライブ いとうせいこう「時代が求めた16BIT」 - YouTube

 

21世紀もあっという間に10数年が経とうという今、どうやらこんな噂がおよそ26年にも渡って飛び交っていること自体信じられない話だが、噂に騒然としているゲーオタ周辺をざっと見ていると本当っぽいようなので、なぜ人はそういう考えに至ってしまうのか、また、そうなってしまった場合、あるいはそうならないための対策方法はあるのか、適当に書いてみる。

空虚という名の見えざる壁に向かって念を押してみるが、当ブログの根底にあるテーマは、ブログやこれを書いている何か自体の存在が微妙かつあやふやなうえ、いつだって「適当」である。また、そうでありたい。

 

 

まず、いきなり個人的な話だが、昨年末のエントリでもチラッと話したように、ほんの一時期だけ、ゲームと離れていた、距離を置いていた、いわば「ゲーム空白の時代」と呼ぶ時期があった。それはゲームに飽きた、無関心になってしまったからではなく、聴きかじりはじめた洋楽や映画鑑賞、読書など、ゲームだけでない面白く感じて夢中になれる楽しい趣味に没頭しはじめたからだった。

 

で、なぜ人がそういう考えに至るかの理由にもつながるかもしれないが、今になって考えるのは、なぜあの頃ゲームから離れていったのだろうかというと、好きになる対象物において、新しさの発見と夢中になる没入度は、よほど多趣味かけもちバランスと時間配分のうまい人でもない限り、趣味にかけられるパラメーター比重には人それぞれで限度があり、多感で時間もお金もあまりない学生時代時分において、ある程度は切り捨てなければならない対象物が発生して、自分はそれがたまたまゲームだっただけなのかもしれない。人と群れるのがイヤなのと趣味に没頭したくて、部活動すらひとつも所属せず終始万年帰宅部だった自分には、部活かけ持ちエンジョイ勢はあり得なかった。

 

社会人になったら、さらに時間は減るぶん、逆に趣味へかける比重配分のバランス感覚とお金はそれなりに増えたから、より効率よく対象物にハマれるようになったり。自分の場合、社会人デビューの場がいきなりオタク系職業という環境だったので、ほぼ強制的かつわりと自然に、趣味シフトがゲームへと戻っていけたのかなという気がする。ゲーム以外のサブカル系趣味も、オタク系仕事の教養としてもちろん同時に続けられたが、本やCD・DVDなど、とにかく家にモノが増えすぎてしまい、スペースの有限があるので、現時点では次第と淘汰というか、ほとんどのコレクションを半泣きで手放したり、よほど永久的に欲しいモノでもない限りは自制心が働き、購入を踏みとどまってしまっている。電子書籍や音楽データ配信などは、時代が求めたってよりも、単にモノを増やさないニーズが求められたのかな……って話は本題と特に関係ないので、さておき。

 

 

「そうなってしまった場合」については、何事もつまらなく、飽きっぽくなってしまう最大の理由に“熱意が冷めた(=熱意を持ち続ける個人努力が足りない)から”、がもっとも挙げられがちだが、オタは死ぬまでオタであり続けられるのか問題(こんな問題、実はどこにもないのかもしれないが、なんとなくこの先もオタでいられる確信と将来への漠然とした不安的なニュアンスとして)にも通じる話で、特にきっかけも何もなく、ひとつの趣味や習慣を急にスパッと辞められるのは、特に悪い傾向ではなく、もっと別な夢中になれる対象物への新たなスタートだと考えればよいのではないか。失恋が新しい恋の始まりとはうまいことを言ったもので、みたいな。

ただ、たくさん抱えていた趣味がある日すべて一気に熱意が冷めた、学校や会社を休みがちになった、一言めには「死にたい」と口にするようになった……とかだと、ちょっと誰か話し相手になってあげたほうがいいのではっていうヤバめな傾向かもしれないけど。それが悟りって領域か無気力症候群かは、自分で判断するしかない。

 

短い、ひょっとしたらだいぶ長いかもしれない人生なんだし、世の中、楽しめる対象物と選択肢が多いほうが絶対にまんざらでもないはずだけど、それでも新しいものがどれもこれもただ単純に新鮮味がない、刺激がないと思って失望、幻滅してしまうだけなら、昔に刺激を感じた古いものをいつまでも、ひっそりと愛で続けているだけでも、誰にも迷惑をかけない限り、いいのではないのか。それは新しいものへの後ろ向き行為では決してなく、好きなものをスルメのように味わい続け、ずっと愛し続ける、超前向きポジティブ行為だ。

ただひとつ、その選択肢を選んだ以上、関心が沸かない新しいものへのコンプレックスを抱いたり批判をしてはいけない。「他のものなんかより自分が好きなものが一番!」と言い放ってしまうことで、比較至上主義の欲求を満たして自己完結してしまうから、自分でも気づかないうちに“そうなってしまう”泥沼にはまり込んでしまうパターンなのかな……とか。

 

 

じゃあ、「そうならないための対処法」はあるのか。

たぶん、ある。というか、あってほしいという切なる願望となってしまうが……。

ごく極端に言うと、「こんなもの(ここではゲーム)さえ好きにならなけりゃ、人生もっと幸せになれて楽しかったのかも……」な超ネガティブ思考と、「けどこれ(ゲーム)が好きになったおかげで今があるし、楽しく生きていける!」の超ポジティブ思考を、どこか心の片隅で両方持ち合わせてちょうど±=0、プラマイゼロでいられるといいのかな、と思う。

 

何もゲームに限ったことじゃないかもしれないが、ここはゲームブログなのでゲームに限定するとして、ゲーム好きでいると、ポジ思考例のように人生すべてがバラ色ってわけでは決してなくて、好きであることへひたむきさと同時に、好きゆえに生まれる多少の後ろめたさや背徳感などの感情を持続させるのは、精神衛生上、実は大事なのではと考えてる。

たとえば幼少時あるあるエピソードでいうところの、学校や親にナイショで禁止されてたゲーセンへ通ってたとか、ゲームをやりすぎて進学できなかったり大事な用事や約束をサボっちゃったとか……おっと、受験エピソードは時節柄、ちょっとデリケート問題だったかも。ゲームの誘惑に負けず、がんばれ受験生!

 

好きなものへ、ネガティブでありつつポジティブであること……超後ろ向きな前向きでいられるのは、少なくとも自分にとっては、新旧問わない好奇心を保ち続けるモチベーションになっている気がする。一時期ゲームから離れていたのは、たまたまポジティブな理由からだったけど、逆に考えれば、なぜあの時期の面白いゲームシーンに最初からいられなかったのか、というネガ思考にもなりかねない。好きの感情にも、きっと光と闇があるのだ。

 

「ゲームで得られた新しさが、最近のゲームではどこにもない」と本気で絶望していて、かつ未プレイな人がいるのならば、(いずれも最新作ではなく近作だけど)こちらも『Portal』『FEZ』『風ノ旅ビト』などを本気でオススメしたいところだが、「○○な人にオススメの××」とかいうテンプレ回答は親切な別の誰かがやってくれるだろうし、そもそも誰にも向けて(読まれて)なさげなアローンインザダーク的当ブログはそういう場所じゃないので省略。

どっちかっつーと、自分に『Portal』を猛烈に薦めてくれたゲーオタの人が言った「いいないいなー、まだポータル体験をしたことがないなんて。これから生まれて初めて新たにポータル体験ができるなんて、とてもうらやましい!」という一言を大事にしてゆく方向へ行きたい。

 

 

表題の答えがちゃんとできたかどうかは分からないが、まあ今回はそんな感じで。

そういや冒頭のメガドラのアレで思い出したけど、いつか誰かが……まあ本家ブログを作った先人さんがね、こんなことを言ってたよ。

 

 

(前略)

 だが、そこがいい。「別に面白くねえ」と言いながら、淡々とプレイするんだよ。すると無駄に悲壮感漂うBGMや、泥臭く陰鬱で何ひとつ晴れやかなところのない映像に引きずり込まれ、いつしか憂鬱な面持ちになってゆく。それでもプレイする。ほかにすることがないから……。

 

 

スーファミ版うしろに立つ少女と向き合ってみた

いつもどおり、適当な雑談をしてたら「その話、こっちのブログにでも書いておいたら?」と、久々に編集長からなんか書け、とお達しが来たので、書く。闇営業とはいえ、当局において編集長権限は絶対なのだ。

 

 

昨年の話になる。

 

3DSバーチャルコンソールで『ファミコン探偵倶楽部』の『消えた後継者』『うしろに立つ少女』2作品を、たて続けにプレイした話を編集長にしたら、スーファミニンテンドウパワー配信版『うしろに立つ少女』もぜひプレイすべし、と猛烈に勧められたので、実機でやってみた。

 

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自分がやる前から編集長が「任天堂が本気を出してアドベンチャーを作ったらこんなにすさまじいゲームができるんだよ!」と言ってて、いきなりこっちのハードルをぐんぐん上げられてどないしょーと期待と不安があったが、実際に始めてみたら……驚いた。ドット表現が……細かい!

 

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スーファミ以降でドット表現や技術ががさらに極まったゲームも数多くあるのだろうが、単にオブジェクトだけでなく、プレイヤーの気持ちまでも揺さぶるというか、立ち絵のキャラクターがここまで生き生きとしているゲームは、そう簡単に出てない気がする。

 

特にあゆみちゃんが悲しみや恐怖でワナワナと震える様子などが、ひたすら繊細で顕著だ。相手との会話中、何かひっかかる質問や核心を突くと、一瞬だけ目をカッと見開いたり、眉がピクリと動いたりなど、顔パーツのほんの微少な動きだけで、相手の表情をうまく表現できているのは、本当にすごい。ディスクシステム版でも眉の上下や目の大小などの表情切り替えはされていたが、あれが10倍以上細やかになったような感じ。表情の微細な変化と、たった一瞬でも見逃せない感情の一挙一動が捜査のヒントにもつながり、つい集中してしまう。

 

自分はすでにディスクシステム版をクリア済みだったので、リメイク版である本作は、あくまでリメイクの出来具合とストーリーやテキストを再度なぞらえるためのプレイと、当初は割り切っていたのに、いざやってみると、初めてプレイするような新鮮さと、重要コマンドを色別ハイライト化させるナビ機能やあらすじ再生機能など、リメイク版で導入された新システムへの感心の、新旧両方の体験ができたのだ。これは「温故知新」のたった四字では単純に言いきれないものがある。

 

随所で出てくるその場限りの一枚絵グラフィックもかなり多いのが、実に贅沢であり、ディスクシステム版ではその姿を見られなかった、校舎前にいる生徒たちの絵まで見られるのも、ちょっと嬉しい。

序盤でさえ衝撃を受けまくる中で、今後結末へ向けていったいどんなさらなる衝撃が待ち受けているのだろう、とストーリーが新章になるたびにますます期待が高まってゆく。

 

 

本作のキャラクター感情表現がどれだけすごいかを、誰かへうまく伝えるのはとても難しいのだが、たとえるなら、自分がアドベンチャーゲームでもっとも好きなタイトルのひとつである『逆転裁判』シリーズのキャラモーションは、カプコン格闘ゲームのキャラモーション文法をアドベンチャーの立ち絵パターンへ応用したもので、だからあれだけ動きが豊かに表現されているのだとして、アドベンチャーゲームにおいて、『逆裁』シリーズの立ち絵キャラの喜怒哀楽表現がモーション(動き)を極めたのだとしたら、『うしろに立つ少女』リメイク版はエモーション(感情)を極めているのではないか……? などともっともそうなことを言ってしまったが、とにかく今のところはモーションとエモーションぐらい違う、としか言いようがない。

 

本作はWiiおよびWii Uバーチャルコンソールでプレイできるので、プレイ環境があればいつでも遊べるのだが、自分としては、本作が『うしろに立つ少女』の初プレイでなく、できればディスクシステム版をプレイ後にやるといいと思った。10年でここまでゲームが進化したんだという驚きと時間の流れ、そして何よりも、さらに豊かになった人物たちの感情に、深く入りこむことができるから。

1996年のPSでか靴下

隔月誌や不定期刊行誌仕事をやってると、表紙や誌面で季節的話題をなぜか振りにくく、季節や時節とはまったく無縁になりがちな生活を迎えるようになってぼちぼち長くなるけど、今日はクリスマスってことでフト思い出した話があったので、わりと珍しく季節に寄りそってみる。きっと寒さがこうさせてるのサ……。

 

自分は昔、アニメや漫画やゲームの本ばかりを作ってるオタク系編集プロダクションに5年ほど在籍していたのだが、入社まもないペーペーの頃は、先輩編集のお使いに行ったりゲーム画面をキャプチャーしたりトレスコ台で写真のアタリ取りしたりなど、いわゆる編集のバイト的下っ端仕事全般をやってて、年末も近いある日も、編集部署の中で一人で黙々と頼まれた作業をしていたら、近くのゲーム作業台からドッと歓声が沸いて、何のゲームをしてるんだろう……と覗いてみたら、先輩編集のみんなが届いたばかりのプレステの発売前ゲームサンプルをワイワイと楽しそうに遊んでいて、今まで見たことのないゲーム内容と、一度聴いたら忘れられない音楽が、すっごく面白そうに見えて、もはや仕事どころではなかったが、自分は下っ端身分なので、もちろん作業の手を止めて合間にゲームなどやらせてもらえそうにもなく、必死でその場をこらえた。

『パラッパラッパー』、これが自分との初めての出会いで、1996年だった。

 

パラッパラッパー』は、その後と現在の自分にとって最高に好きなゲームのひとつとなり、あらゆる関連グッズもたくさん集めるほどの大ファンになったが、今回はそのへんの話題がメインでないので、それはさておき。

プレステが発売された1994年末は、高校あたりからしばらく続いていた、音楽や映画や読書などゲーム以外のカルチャーにどっぷり夢中になっていた、いわゆる“ゲーム空白の時代”だったので、すぐにプレステ本体とゲームを買おうとは思わなかった。しかし今後の進路を決める際に、自分の本来のルーツは、やはり幼少時代から慣れ親しんだゲーム雑誌やゲーム攻略本だと何となく気づいて、前出のようなオタク系編プロへ就職したのだけど、ニンテンドウ64セガサターン、プレステの攻略本案件がメインとなりつつあった95~96年の入社頃でも、まだスーファミの攻略本(スーパードンキーコングシリーズとか)をギリギリ作っていたような状況で、とにかく仕事を覚えることでいっぱいいっぱいで、仕事では扱いつつも個人的にゲームをやる心の余裕がほとんどなかったし、スーファミ本体を買った動機が「ドラクエ5がやりたいから」だった自分がやりたいようなゲームが、プレステではいつ出るのかな……とかボンヤリ考えていたら、2年後、職場という思わぬ場所で出会ってしまった。『パラッパラッパー』と!

 

そして12月末、プレステ本体と『パラッパラッパー』を同時に購入したら、プレステ本体に、何かおまけが付いていた。プレステ本体が丸ごと入るという、でっかいクリスマスの靴下だった。

靴下の正式名称を忘れちゃったのでいろいろ調べてみたら、「PSでか靴下」という、本体購入者先着12万名に店頭でプレゼントされたものだが、これ95年の年末キャンペーンで配布されて、自分がパラッパと本体を同時購入したのが96年の年末で……あれー、1年違う!? もしや自分の記憶違い? と不安になってしまったが、出たばかりのパラッパと本体を同時購入したのは確かなので、なぜ1年遅れでPSでか靴下をゲットできたのかは、結局のところは謎である。もしかして買ったお店で昨年余っちゃったのを配ってたとか……?

 

PSでか靴下、実際に持っててかつ本体が入るか試した人がどのくらい存在するかわからないけど、あれ入れてみると入口が結構キツキツで、丸ごと入ると豪語する割には厳しかったような……と思ったら、当時のプレステ関連CMをまとめている記事があった。ほらーやっぱ厳しいよコレ!! あともし自分がサンタさんにプレゼントでゲーム機をもらうなら、こんな感じで本体は包装アリで箱に入ったままのほうがいいなーと思った。


Nintendo Sixty-FOOOOOOOOOOUR - YouTube

今ごろこの坊やたち、どう成長しているのだろうか。まだゲーム好きだといいな。

 

メリークリスマス&よいお年を。