ゲームサイドUG neo

ゲームサイド編集部の何か

ソフトのせいでもハードの限界でもなく個人的嗜好の変化でもない理由と対処法を考えてみる


CM MD SEGA メガドライブ いとうせいこう「時代が求めた16BIT」 - YouTube

 

21世紀もあっという間に10数年が経とうという今、どうやらこんな噂がおよそ26年にも渡って飛び交っていること自体信じられない話だが、噂に騒然としているゲーオタ周辺をざっと見ていると本当っぽいようなので、なぜ人はそういう考えに至ってしまうのか、また、そうなってしまった場合、あるいはそうならないための対策方法はあるのか、適当に書いてみる。

空虚という名の見えざる壁に向かって念を押してみるが、当ブログの根底にあるテーマは、ブログやこれを書いている何か自体の存在が微妙かつあやふやなうえ、いつだって「適当」である。また、そうでありたい。

 

 

まず、いきなり個人的な話だが、昨年末のエントリでもチラッと話したように、ほんの一時期だけ、ゲームと離れていた、距離を置いていた、いわば「ゲーム空白の時代」と呼ぶ時期があった。それはゲームに飽きた、無関心になってしまったからではなく、聴きかじりはじめた洋楽や映画鑑賞、読書など、ゲームだけでない面白く感じて夢中になれる楽しい趣味に没頭しはじめたからだった。

 

で、なぜ人がそういう考えに至るかの理由にもつながるかもしれないが、今になって考えるのは、なぜあの頃ゲームから離れていったのだろうかというと、好きになる対象物において、新しさの発見と夢中になる没入度は、よほど多趣味かけもちバランスと時間配分のうまい人でもない限り、趣味にかけられるパラメーター比重には人それぞれで限度があり、多感で時間もお金もあまりない学生時代時分において、ある程度は切り捨てなければならない対象物が発生して、自分はそれがたまたまゲームだっただけなのかもしれない。人と群れるのがイヤなのと趣味に没頭したくて、部活動すらひとつも所属せず終始万年帰宅部だった自分には、部活かけ持ちエンジョイ勢はあり得なかった。

 

社会人になったら、さらに時間は減るぶん、逆に趣味へかける比重配分のバランス感覚とお金はそれなりに増えたから、より効率よく対象物にハマれるようになったり。自分の場合、社会人デビューの場がいきなりオタク系職業という環境だったので、ほぼ強制的かつわりと自然に、趣味シフトがゲームへと戻っていけたのかなという気がする。ゲーム以外のサブカル系趣味も、オタク系仕事の教養としてもちろん同時に続けられたが、本やCD・DVDなど、とにかく家にモノが増えすぎてしまい、スペースの有限があるので、現時点では次第と淘汰というか、ほとんどのコレクションを半泣きで手放したり、よほど永久的に欲しいモノでもない限りは自制心が働き、購入を踏みとどまってしまっている。電子書籍や音楽データ配信などは、時代が求めたってよりも、単にモノを増やさないニーズが求められたのかな……って話は本題と特に関係ないので、さておき。

 

 

「そうなってしまった場合」については、何事もつまらなく、飽きっぽくなってしまう最大の理由に“熱意が冷めた(=熱意を持ち続ける個人努力が足りない)から”、がもっとも挙げられがちだが、オタは死ぬまでオタであり続けられるのか問題(こんな問題、実はどこにもないのかもしれないが、なんとなくこの先もオタでいられる確信と将来への漠然とした不安的なニュアンスとして)にも通じる話で、特にきっかけも何もなく、ひとつの趣味や習慣を急にスパッと辞められるのは、特に悪い傾向ではなく、もっと別な夢中になれる対象物への新たなスタートだと考えればよいのではないか。失恋が新しい恋の始まりとはうまいことを言ったもので、みたいな。

ただ、たくさん抱えていた趣味がある日すべて一気に熱意が冷めた、学校や会社を休みがちになった、一言めには「死にたい」と口にするようになった……とかだと、ちょっと誰か話し相手になってあげたほうがいいのではっていうヤバめな傾向かもしれないけど。それが悟りって領域か無気力症候群かは、自分で判断するしかない。

 

短い、ひょっとしたらだいぶ長いかもしれない人生なんだし、世の中、楽しめる対象物と選択肢が多いほうが絶対にまんざらでもないはずだけど、それでも新しいものがどれもこれもただ単純に新鮮味がない、刺激がないと思って失望、幻滅してしまうだけなら、昔に刺激を感じた古いものをいつまでも、ひっそりと愛で続けているだけでも、誰にも迷惑をかけない限り、いいのではないのか。それは新しいものへの後ろ向き行為では決してなく、好きなものをスルメのように味わい続け、ずっと愛し続ける、超前向きポジティブ行為だ。

ただひとつ、その選択肢を選んだ以上、関心が沸かない新しいものへのコンプレックスを抱いたり批判をしてはいけない。「他のものなんかより自分が好きなものが一番!」と言い放ってしまうことで、比較至上主義の欲求を満たして自己完結してしまうから、自分でも気づかないうちに“そうなってしまう”泥沼にはまり込んでしまうパターンなのかな……とか。

 

 

じゃあ、「そうならないための対処法」はあるのか。

たぶん、ある。というか、あってほしいという切なる願望となってしまうが……。

ごく極端に言うと、「こんなもの(ここではゲーム)さえ好きにならなけりゃ、人生もっと幸せになれて楽しかったのかも……」な超ネガティブ思考と、「けどこれ(ゲーム)が好きになったおかげで今があるし、楽しく生きていける!」の超ポジティブ思考を、どこか心の片隅で両方持ち合わせてちょうど±=0、プラマイゼロでいられるといいのかな、と思う。

 

何もゲームに限ったことじゃないかもしれないが、ここはゲームブログなのでゲームに限定するとして、ゲーム好きでいると、ポジ思考例のように人生すべてがバラ色ってわけでは決してなくて、好きであることへひたむきさと同時に、好きゆえに生まれる多少の後ろめたさや背徳感などの感情を持続させるのは、精神衛生上、実は大事なのではと考えてる。

たとえば幼少時あるあるエピソードでいうところの、学校や親にナイショで禁止されてたゲーセンへ通ってたとか、ゲームをやりすぎて進学できなかったり大事な用事や約束をサボっちゃったとか……おっと、受験エピソードは時節柄、ちょっとデリケート問題だったかも。ゲームの誘惑に負けず、がんばれ受験生!

 

好きなものへ、ネガティブでありつつポジティブであること……超後ろ向きな前向きでいられるのは、少なくとも自分にとっては、新旧問わない好奇心を保ち続けるモチベーションになっている気がする。一時期ゲームから離れていたのは、たまたまポジティブな理由からだったけど、逆に考えれば、なぜあの時期の面白いゲームシーンに最初からいられなかったのか、というネガ思考にもなりかねない。好きの感情にも、きっと光と闇があるのだ。

 

「ゲームで得られた新しさが、最近のゲームではどこにもない」と本気で絶望していて、かつ未プレイな人がいるのならば、(いずれも最新作ではなく近作だけど)こちらも『Portal』『FEZ』『風ノ旅ビト』などを本気でオススメしたいところだが、「○○な人にオススメの××」とかいうテンプレ回答は親切な別の誰かがやってくれるだろうし、そもそも誰にも向けて(読まれて)なさげなアローンインザダーク的当ブログはそういう場所じゃないので省略。

どっちかっつーと、自分に『Portal』を猛烈に薦めてくれたゲーオタの人が言った「いいないいなー、まだポータル体験をしたことがないなんて。これから生まれて初めて新たにポータル体験ができるなんて、とてもうらやましい!」という一言を大事にしてゆく方向へ行きたい。

 

 

表題の答えがちゃんとできたかどうかは分からないが、まあ今回はそんな感じで。

そういや冒頭のメガドラのアレで思い出したけど、いつか誰かが……まあ本家ブログを作った先人さんがね、こんなことを言ってたよ。

 

 

(前略)

 だが、そこがいい。「別に面白くねえ」と言いながら、淡々とプレイするんだよ。すると無駄に悲壮感漂うBGMや、泥臭く陰鬱で何ひとつ晴れやかなところのない映像に引きずり込まれ、いつしか憂鬱な面持ちになってゆく。それでもプレイする。ほかにすることがないから……。